「包丁を使った強盗事件が起きたら,包丁職人も幇助の罪に問われるのか」という命題を、鑑賞前に少しでも考えるとよいと思った。この問いは、後に映画の展開と密接に関連してくるものだから。
初めてクリストファー・ノーランの映画を見たけれど、その価値は確かに絶賛に値すると思った。壮大な音楽、効果音、そして視覚的な演出が、恐怖、罪悪感、苦悩、絶望などを見事に伝えてくれた。
この映画は、原爆についての映画ではなく、ロバート・オッペンハイマーの半生を描いた作品。事前にたくさんのレビューからそのことを知っていたけれど、実際に映画を見ると、その半生が原爆開発と多くの民間人の死を巻き込んだことでの罪悪感と苦悩だけではなく、さらに多面的で複雑なものであることが分かる。それは彼自身の人生によるもので、世界を破壊しうる爆弾はどう使われるべきか、という壮大な悩みより、ユダヤ人で他人から蔑まれ、愛する人とはうまくいかず、ソ連へのスパイ容疑をかけられるという、一人の人生の苦悩だった。
特に映画の後半では、オッペンハイマーがストローズの策略によってスパイ容疑をかけられ、自分を守る人が少ない中で苦悩する姿が中心に描かれていた。この部分からも、彼が抱える苦悩や絶望の深さがより明確に伝わってきた。
そのため、映画が原爆の恐ろしさを描き切れていないという批判は単純化されたもの、という主張は入り口に過ぎないのであって、この映画がオッペンハイマーの半生を描いた作品であることを理解し、さらに「なぜ、どんな悩みを抱えていたのか」を知るべきだ、と主張されるべきだったと思う。
映画を見た純粋な感想は、とにかく難しかった。多くの登場人物や複雑な展開があり、アカデミー賞授賞式の解説通り、最初はついていくのが大変だった。しかし、観客が多少の置いてけぼりを経験しながらも、後で理解できる展開になっていたと思う。カラーとモノクロが現在・過去だと思っていたけれど、異なる人物視点を描くのは斬新だった。
映画の中でも最も印象的だったのはトリニティ実験のシーン。その緊張感やスリリングさは、広島や長崎への原爆投下の場面よりも強く、その瞬間に身を乗り出してしまった。オッペンハイマーがボタンを押す瞬間の恐怖は、大気が引火して地球全体が火の海になる可能性を知りながらも行動する苦悩と共鳴した。
世界を破壊してしまう可能性がゼロではないと気づきながらも、ボタンを押させた論理は、映画を見ているときは単純に「ナチスに先を越されてはならない(=アウシュビッツでのユダヤ人虐殺を考慮すればナチスはもっと残虐なことをする)」という大義名分があったからだ、とみていた。それだけでも人間の残酷さを感じとっていた。けれど、なぜこの映画でノーランがオッペンハイマーの性生活を描いたのか、を解説している文章を読んで、「ナチスに先を越されないため」というある意味もっともらしい理由なんかではなく、個人の性衝動的な欲求を満たす感覚に近かったのだと思うと、一人の人があそこまで時間と莫大な金をかけて爆弾開発をする理由がわかりたくないながらもわかった気がする。「ニューメキシコと物理学を一緒にしたい」という彼の夢がかなう、彼の青春の地だったから、ロスアラモスは。
日本人として、原爆に関する知識が乏しいことを反省した。教科書に記載された情報と、アメリカでの原爆投下の正当性や近年の議論を踏まえても、原爆を開発した個々の人物についてはほとんど知識がなかった。そこで、トルーマン大統領がオッペンハイマーに対して述べた「原爆を恨むべきは作った人ではなく、投下した人」という言葉はとても印象的だったし、実際そうなっている現実を踏まえても、アメリカはすごかった。
ノーラン監督は、さまざまな視点を提示してくれる偉大な監督だと感じた。この映画を通じて、彼の才能や映画作品に対する覚悟を知りたいと感じた。コロナ禍において、映画が動画配信で供給されコンテンツ化されることを危惧し、「映画は映画館で鑑賞されるべき芸術」と言った彼の神髄が、映画に詳しくない私でも垣間見えた気がした。
次は、他のノーランの作品や、『winny』という映画を見てみたい。この作品は冒頭の包丁職人の命題に触れるものであり、オッペンハイマーのあとに観るとどのような感想を抱くのか、楽しみ。